†聖書からのメッセージ†

みなさん おはようございます。

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題《‘門’であり‘羊飼い’であられるイエス様》

『私は門です。だれでも、私を通って入るなら、救われます。』(聖書)


ある時イエス様は、例え話をされました。
「‥しかし門から入る者は、その羊の牧者です。
門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は、自分の羊をその名で呼んで連れ出します。

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立っていきます。
すると羊は、彼の声を知っているので彼についていきます。‥」

これを聞いて、よくわからなかった弟子達に、さらに話をされました。
「私は羊の門です。
‥誰でも私を通って入るなら、救われます。
また安らかに出入りをし、牧草を見つけます。

私が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。

私は良い牧者です。
良い牧者は、羊のために命を捨てます。」


この例え話の中で、イエス様はご自身を‘門’と‘牧者(羊飼い)’に例えておられます。

“良い牧者は羊のために命を捨てます”という箇所は、これから先 イエス様が十字架において、罪のあがないをされることを表しています。

私達は、誰しも‘罪’を抱えて生きています。

罪とは、もちろん悪事も含まれますが、最も大きな罪は、神である方を神としない罪です。

聖書における神様を信じる時、私達は神様の子どもとされ、神様は父となってくださいます。

人間の親子で考えた時、父親にとって最も悲しいことは、子どもが悪さをすることではなく、自分を父親としてみてくれないことではないかと思います。

神様もまた、私達が神様の存在を否定し、受け入れないことを一番悲しまれているのだと思います。


エス様は、私達の悪事や悪い思い‥そして、神様を拒んでいたことによる罪も全てを背負って、十字架において罰を受けてくださいました。

エス様という‘門’を通り、私達は父なる神様のもとに帰ることができるのです。


聖書の他の箇所で書かれた例え話に、放蕩息子の話がありますが、父親は放蕩を尽くして、すべてを失った息子を抱きしめて迎え入れました。

おそらく息子は、父親のもとに帰り、本来の生き方を取り戻し、後の人生を大切に生きたことと思います。
私達もまた、父であり優しい羊飼いである神様のもとに帰る時、自分自身‥そして自分の人生が神様の前に、いかに大切で尊いものであるかを知ることができるのだと思います。


『主(神様)は、私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場にふさせ、憩いの水のほとりにともなわれます。
主は私の魂を生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩むことがあっても、私は災いを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。』(聖書)

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題《安息日の意義》

『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざが、この人に現れるためです。』(聖書)

ある時、イエス様と弟子達は、生まれつき目が見えない人のそばを通りがかりました。

すると弟子達はイエス様に、こう質問しました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。両親ですか。」

エス様は答えられました。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざが、この人に現れるためです。」

そしてその後、地面につばきをされ、そのつばきで泥を作られ‥目の見えない人の目に塗って言われました。
「行って、シロアムの池で洗いなさい。」

彼が、イエス様に言われた通りシロアムの池に行き、目を洗うと、目が見えるようになりました。


この奇跡を知ったパリサイ人達は、ちょうどこの日が安息日だったため「その人は、神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と非難しました。

そしてそれだけでなく、彼らは、目が開かれた彼と彼の両親にまで、イエス様について‥また奇跡の詳細について追求していきました。

律法において、安息日にしてはならないことが、事細かに定められていて、パリサイ人達は、イエス様が行われた奇跡もまた律法違反にあたると主張したのでした。


安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ』という戒めは、十戒の中のひとつですが、これは元々私達が、普段の仕事を休み‥共に神様を礼拝するために定められた戒めでした。

けれども、それが段々エスカレートし、“安息日には これ以上の距離を歩いてはならない‥ これ以上の重さの物を持ち運んではならない”などの細かい律法ができていきました。

こういった背景から、パリサイ人達は、安息日に奇跡を起こされたイエス様のことを非難したのでした。


目が見えなかった男性は、イエス様によって目が見えるようになったことを率直に話したことにより、パリサイ人達からひどい扱いを受けた後 イエス様が彼を見つけ出して、こう聞かれました。
「あなたは、人の子(ご自分のこと)を信じますか。」

人の子とは、誰のことかをたずねた彼に、ご自身がそうであるとイエス様が、お答えになると彼は言いました。
「主よ。私は信じます。」
そして彼は、イエス様を拝しました。


このことを通してイエス様は、私達が真の神であるイエス様を信じ‥拝することこそが、安息日の本来の意義であることを示されたかったのではないかと思います。


『私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いをめぐらし、あなたの御手(みて)のわざを静かに考えています。』(聖書)

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題《

『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざが、この人に現れるためです。』(聖書)

ある時、イエス様と弟子達は、生まれつき目が見えない人のそばを通りがかりました。

すると弟子達はイエス様に、こう質問しました。
「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。両親ですか。」

エス様は答えられました。
「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざが、この人に現れるためです。」

そしてその後、地面につばきをされ、そのつばきで泥を作られ‥目の見えない人の目に塗って言われました。
「行って、シロアムの池で洗いなさい。」

彼が、イエス様に言われた通りシロアムの池に行き、目を洗うと、目が見えるようになりました。


この奇跡を知ったパリサイ人達は、ちょうどこの日が安息日だったため「その人は、神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と非難しました。

そしてそれだけでなく、彼らは、目が開かれた彼と彼の両親にまで、イエス様について‥また奇跡の詳細について追求していきました。

律法において、安息日にしてはならないことが、事細かに定められていて、パリサイ人達は、イエス様が行われた奇跡もまた律法違反にあたると主張したのでした。


安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ』という戒めは、十戒の中のひとつですが、これは元々私達が、普段の仕事を休み‥共に神様を礼拝するために定められた戒めでした。

けれども、それが段々エスカレートし、“安息日には これ以上の距離を歩いてはならない‥ これ以上の重さの物を持ち運んではならない”などの細かい律法ができていきました。

こういった背景から、パリサイ人達は、安息日に奇跡を起こされたイエス様のことを非難したのでした。


目が見えなかった男性は、イエス様によって目が見えるようになったことを率直に話したことにより、パリサイ人達からひどい扱いを受けた後 イエス様が彼を見つけ出して、こう聞かれました。
「あなたは、人の子(ご自分のこと)を信じますか。」

人の子とは、誰のことかをたずねた彼に、ご自身がそうであるとイエス様が、お答えになると彼は言いました。
「主よ。私は信じます。」
そして彼は、イエス様を拝しました。


このことを通してイエス様は、私達が真の神であるイエス様を信じ‥拝することこそが、安息日の本来の意義であることを示されたかったのではないかと思います。

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題《光の中を歩む》

『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』(聖書)

エス様が、人々に話しておられた時、律法学者とパリサイ人達が、姦淫の場で捕らえられた女性を連れてやってきました。

そして彼らは言いました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう命じています。
ところで、あたなは何と言われますか。」

するとイエス様は、黙って地面に指で何かを書き始められました。

しかしパリサイ人達が、イエス様に問い続けてやめなかったので、イエス様は身を起こして言われました。「あなたがたのうちで、罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

彼らはそれを聞くと、年長者達から、ひとりひとり出て行き、イエス様だけが残されました。

再びしゃがんでおられたイエス様は、身を起こして彼女に言われました。
「婦人よ。あの人達は今 どこにいますか。
あなたを罪に定める者は、いなかったのですか。」

彼女が「だれもいません。」と答えるとイエス様は言われました。
「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」


パリサイ人や律法学者達は、イエス様が“神の子”であることを信じられず‥また人々の心が、少しずつイエス様の方へと動いていくことを妬んでいました。

こういったことから、イエス様をおとしいれるために、女性を利用したと思われますが、いくら罪を犯していたとはいえ、これは女性の尊厳を傷つける行為であったと思います。

彼らがこのようなことをしてしまったのは、イエス様への妬みに加え、自分達が考える正しさ(律法を守ること)に縛られ、最も肝心な愛から離れてしまったからだと思われます。

エス様は、彼らが女性を連れてきた時に、身をかがめられ地面に何かを書き始められました。

この箇所は、色々な解釈がされていますが、おそらくは女性を直視することをされないための方法だったように思われます。

姦淫の現場から直接連れて来られたということは、きっと着の身着のままの姿だったと思います。

彼女を直視せずに、目をそらしてくださったイエス様の姿は、パリサイ人や律法学者達とは対照的に、何か優しさを感じます。


エス様は、人々が去った後、彼女に言われました。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

先週のメッセージで、イエス様が私達の心の飢え渇きを癒やしてくださると書きました。

彼女もまた、心に何らかの飢え渇きがあって、罪の中にいたのかもしれません。
けれども癒やし主であるイエス様と出会って、彼女はここから変えられていったのだと思います。

エス様の「今からは決して罪を犯してはなりません。」という言葉には、“もうこれからは、罪を犯さなくてもよくなるんだよ”という思いが込められているのだと思われます。


『私は、世の光です。
私に従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。』(聖書)

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題《最も大切なこと》

『あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。』(聖書)

エス様が、2匹の魚と5つのパンによる奇跡をなされた後、人々はイエス様に会いにやってきました。

そして、こう質問しました。
「私達は、神のわざを行うために、何をすべきでしょうか。」

エス様は答えられました。
「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

人々は、おそらく あのパンと魚の奇跡を見て、そのようなことを起こすために、何をすべきかをイエス様に問うたのだと思われます。

けれどもイエス様が言われたのは、“あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです”でした。

“神が遣わした者”とはイエス様ご自身のことであります。

私達にとって、イエス様を信じることこそが神様の御業であり 最も大切なことであるということを言われたのではないかと思われます。


エス様を信じるとは、イエス様が私達の罪のため死んでくださったこと‥そして3日目に復活されたことにより永遠の命が与えられることを信じることを意味します。

このことを一言で“福音”(良い知らせ)と言いますが、この福音を信じた時、私達はパンと魚の奇跡によって多くの人達が祝福されたように、福音によって多くの人達が救われることを願うようになります。

つい、何をすべきか‥どんな方法によってすべきかと頭を悩ましてしまいますが、私達がまず第一になすべきことは、イエス様としっかりつながっていることです。

エス様は、別の機会の時、こう言われました。「私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」

木と枝とがしっかりとつながっているように、私達がイエス様とつながっていることを信じていく日々を送る中で、イエス様は私達が何をなすべきか‥どんな方法によってすべきかを、一つひとつ教えてくださいます。

喜んで従えることもありますが、従うには勇気や力、また謙虚さや忍耐が必要なこともあると思います。

けれど心配しなくて大丈夫です。

私達が従うと決心し、一歩一歩歩んでいく時、イエス様が必要な力をすべて与えてくださいます。

時には失敗することもあるかもしれませんが、イエス様はその失敗さえも益へと変えてくださいます。

ぶどうの木であるイエス様としっかりつながり、イエス様の御声に耳を傾け、従っていくならば、神様は豊かに実を実らせてくださいます。


『私はぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人が私にとどまり、私もその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
私を離れては、あなたがたは何もすることができないからです。』(聖書)

†聖書からのメッセージ†

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題《イエス様への思い》

『ここに少年が大麦のパンを5つと小さい魚を2匹持っています。』(聖書)


ある時、イエス様と弟子達が山に登り座っていると、大勢の人達がイエス様に会うためにやってきました。
その様子をご覧になり、イエス様は弟子のピリポに言われました。
「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか。」

ピリポは答えて言いました。
「めいめいが少しずつ取るにしても、200デナリ(150〜200万円)のパンでは足りません。」

その後、弟子のアンデレがやってきて言いました。
「ここに少年が大麦のパンを5つと小さい魚を2匹持っています。
しかし、こんなに大勢の人々では、それが何になりましょう。」

それを聞いてイエス様は、人々を座らせるように弟子達に言い、パンと魚を順番に取り、感謝を捧げてから座っている人々に分けていかれました。

彼らが十分食べた時、弟子達に余ったパン切れを集めるように言われ、弟子達がそれを集めたところ12のカゴにいっぱいになりました。


エス様が、奇跡を行われた元となったものは、一人の少年の持ってきたパンと魚でした。

エス様が注目されたのは、持ってきたものは何かではなく、“イエス様のお役に立ちたい”という彼の思いだったと思われます。

きっと少年は、何の混じりけもない ただまっすぐな気持ちで、パンと魚をイエス様に捧げたのだと思います。


旧約聖書に、アダムとエバの息子であるアベルとカインという兄弟が登場します。

彼らはある時、神様に捧げものをしました。

農業をしていたカインは、収穫した作物の中の一部を‥羊かいをしていたアベルは、最上の羊の初子を神様に捧げました。

神様は、アベルとその捧げものに目を留められ‥アベルに対して怒りと妬みを覚えたカインは、最後にアベルを殺してしまいました。
カインは、元いた土地から追い出されることになり、地をさすらう者となりました。

神様は、カインが殺されることのないように、カインに一つのしるしを与えられました。

このように神様は、アベルと同じようにカインのことも愛されていたことがわかります。


神様が、アベルの捧げものに目を留められたのは、カインよりアベルを愛されたからではなく、アベルの神様を尊ぶ思いを感じられたからではないかと思います。

アベルが捧げた最上の羊の初子には、彼の神様を尊び慕う気持ちが込められていたのだと思われます。


アベルも、あのパンと魚を持っていった少年も、神様を慕う思いから、今できる精一杯のことをしました。
神様は、彼らの思いと行いを喜んで受け取られました。


神様は、アベルやカイン、また弟子達や少年を始めとした人々を愛しておられたように私達のことも愛されています。

神様の愛ゆえに、イエス様は、私達のため ご自分の命を捧げてくださいました。

その愛は、今もなお変わらず私達に注がれています。
私達が、この愛を受け 感謝の気持ちを込めて精一杯の行動していく時、神様はそれを喜んでくださり、私達を豊かに祝福してくださいます。


『主、わが力。私はあなたを慕います。』(聖書)

6日の聖書メッセージについての事です

6日の聖書メッセージについてのことですが、少し訂正と補足説明をさせていただきたいと思います。

ベテスダの池について、メッセージの中で、“池に入ると病が癒やされる”ことについて迷信だと断定した形で記述しました。

後から、口語訳聖書にある挿入文を読みましたら、(私はいつも新改訳聖書を使っています)そこには「主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっさきに入る者は、どんた病気にかかっていてもいやされた」と書かれていました。

インターネットや聖書辞書などで調べてみましたら、口語訳聖書にある挿入文は、元となる聖書写本には記載がないようで、後から書き写した人が付け加えたということのようでした。

後から挿入された文章が、事実か否かがわかりませんので、なんとも言えないところがありますが、仮に病が癒やされていたとして、それが神様の御業であったのか、単なる偶然であったのかも断定できないと思われます。

ですから、今回色々調べてみて、ベテスダの池におけることが迷信であると言い切ることもできないのではないかと思いましたので、訂正させていただきました。


ちなみに古代には、“癒やしの宮”というものが多くあり、代表的なものにアスクレピアスの神殿といって異教徒の人々が癒やしの神としてまつっていた神殿があったようで、そういった神殿に隣接していた泉や湧き水で身をきよめていたようです。

ベテスダの池がそういった目的でつくられたとは聖書に書かれていないので、はっきりしたことはわかりませんが、仮にそのような目的でつくられていたとしたら、ベテスダの池におけることは迷信であると言えるのではないかと思われます。