†聖書からのメッセージ†
みなさん こんにちわ。
聖書からのメッセージを書いていますので、良かったら ご覧になってください*
題《自我からの解放》
『誰でも、私についてきたいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負い、そして私について来なさい。』(聖書)
ある時 イエス様は、弟子達に「あなたがたは、私をだれだと言いますか。」
弟子の中のペテロが答えて言いました。
「あなたは、キリスト(救い主)です。」
けれども、その後 イエス様が これからご自身の身に起こることを話された時、ペテロはイエス様をいさめ イエス様の言葉を否定しました。
それを聞いてイエス様はペテロに「下がれサタン あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と言われました。
このやりとりの最後にイエス様は「私と私の言葉を恥じるような者なら、人の子も父の栄光をおびて聖なるみ使い達とともに来る時には、そのような人のことを恥じます。」と言われていますが‥ペテロがイエス様のことをいさめた原因のひとつに、ペテロがイエス様の言葉を恥じたことがあったと思われます。
イエス様が話された、これからご自分が十字架にかけられ‥その後よみがえられることを、ペテロは信じきれず、また周囲の人達に対して恥を覚え、イエス様をいさめてしまったのかもしれません。
自我が芽生え始めると、だんだん恥ずかしいという気持ちも芽生えてくることから、恥には“自我”が影響しているように考えられます。
そして、アダムとエバが罪を犯す前には 裸であることが自然でしたが、罪を犯した後、突然 裸であることが恥ずかしくなり 葉っぱで身を隠したことから、“自我”とは罪と大きな関係があると思われます。
確かに、私達が抱える悩み苦しみの根本の多くは、自我につながっていきます。
自我によって、私達は周りの人と比べて劣等感に苦しんだり‥傷つけた相手を憎んだり‥思い通りにいかないと腹が立ったり‥
では、どうすれば 私達は この自我から自由になれるのでしょう
イエス様は、ペテロとのやりとりの後、弟子達や人々に言われました。
「だれでも私について来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私について来なさい。」
けれど、自分を捨てる(自我から解放される)ことは、そんなに簡単なことではないと思います。
仏教の世界では、座禅によって“無”になる訓練をするようですが、静かに座っている時には、腹を立てたり 怒りを覚えることもそんなに無いと思われます。
けれども問題なのは、そういったことが、静かに座っている時ではなく、あわただしい日常生活の中に起こるということです。
周りにいる気の合わない人、暴言を吐く上司、言うことを聞かない子ども、話を聞いてくれないパートナーなど‥私達は日常において いくらでも 腹を立てたり怒りを覚えるきっかけはあります。
そんな時、自我から解放されていたとしたら どんなに楽なことでしょう
イエス様は、十字架の上で私達が本来負うべき罪の罰を肩代わりしてくださり‥一度死なれた後 復活されました。
このイエス様を信じる時、私達は すべての罪がゆるされ‥時には劇的に、また時には少しずつ、傷が癒やされ‥自我からも解放されていきます。
また時として、私達が自我から解放されるために試練が与えられることもあると思われます。
もちろんそれでも、私達が自我から完全に解放されるのは天国に行ってからだと思いますので、神様を信じてからも自我による苦しみが起こる時はあります。
しかし私達は、抱えている思いをすべてイエス様に聞いてもらうことができます。
その時イエス様は、私達の心に受けた傷を癒やしてくださり、また怒りや憎しみを沈めてくださいます。
自我からの解放は本当にすばらしいことですが、一番すばらしいことは、このイエス様が、いつも共にいてくださることですね
『キリストは、自由を得させるために、私達を解放してくださいました。 ですから、あなたがたはしっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』(聖書)